岩名泰岳
あくた
世界はわたしたちに何も残してくれない。
それなのに、ちりやあくたは消えることがない。
街の人たちの残飯を、だれかが村に集めて来ては、褐色の丘を築いた。
月日が経つと、そこから人魂のような湯気が、声のない、夕暮れの空にのぼった。
もうだれも帰って来ないし、骨も仏も本当の姿はわからない。
木の根と獣が仲間になると、頭を砕かれた野仏が土手から転げ落ちた。
こんなに人が減ると、だれも物語なんて継ぎたくはない。
それでも祭りの日には、みんな笑って文句も言いながら、白い餅を丸めている。
あたたかい日、あたたかい手のひら。
2026年 岩名泰岳
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岩名泰岳:
ポストローカル状況における絵画の残存、循環、共同性
岩名泰岳の絵画実践は、現代日本における地方の衰退、共同体の変容、信仰形態の希薄化といった歴史的・社会的条件を背景に成立しながら、それらを単なる主題的内容として図像化することにとどまらず、むしろ絵画という制度それ自体の存在条件を再考させる契機を内包している。1987年三重県生まれの岩名は、成安造形大学およびデュッセルドルフ芸術アカデミーで絵画を学び、現在は伊賀市島ヶ原を拠点として制作を続けている。作家の関心は、過疎化の進行する土地における人びとの記憶、生活、信仰、自然の循環へと向けられている。しかし重要なのは、彼の仕事が地方を「表象の対象」として外在化して扱うのではなく、作家自身がその変容のただなかに身を置く当事者として制作している点にある。したがって、岩名の絵画は消滅しゆく風景や風俗の記録保存ではない。むしろそこでは、風化、分解、忘却、喪失といった不可逆的過程を所与の条件として引き受けたうえで、なお絵画はいかに世界の経験を担いうるのか、という問いが一貫して提出されている。
岩名の制作を通覧すると、その主題系はきわめて首尾一貫している。獣、道、山、花、骨、供物、野仏、墓、廃墟、耕作放棄地、堆肥といったモティーフは、個別に完結した象徴として配置されるのではなく、相互に浸透しあう世界過程の諸契機として反復される。展覧会タイトルにおいても、「観音山」「巡礼」「みんなでこわしたもの」「みちつくり」「けものたちのかけら」といった語群が示すように、移動、残余、霊性、生成、破壊といった契機が一つの語彙体系をなしている。ここで注目すべきは、岩名において生命と死、生成と崩壊、聖性と廃棄が明確に分節されていないことである。近代的な表象秩序は一般に、対象を識別可能な単位へ分節し、それぞれに安定した意味を付与することによって成立してきた。これに対して岩名の絵画では、形象はつねに曖昧な境界に置かれている。骨は土塊に近づき、野仏は石片と見分けがつかず、獣は明示的な肖像ではなく気配として現れ、湯気や煙は生命と死、祝祭と腐敗の両義性を帯びたまま漂う。ここでは絵画は、対象を確定的に可視化する装置というよりも、いまだ名称へと回収されきらない存在の徴候を受容する場として機能しているのである。
この点において、岩名の絵画は、地方の生活世界を描く具象表現であると同時に、存在論的な水準での問いを含む。すなわち彼が描いているのは、たんに「何があるか」ではなく、「ものがいかに残り、いかに失われ、いかに別の相へ移行するか」という過程そのものである。たとえば作家による「あくた」という短文には、街の残飯が村へ集積し、褐色の丘となって発酵し、そこから人魂のような湯気が立ちのぼる光景が記されている。そこでは骨も仏も本来の姿を失い、破壊された野仏は土手を転げ落ちる一方、祭礼の日には人びとが手のひらで餅を丸める。ここに見出されるのは、供物と残飯、祭礼と腐敗、信仰と破壊、共同性と廃棄物とが、一つの生活世界の内部で連続しているという感覚である。この連続性の感覚こそ、岩名の芸術を理解する鍵である。彼の作品においては、終末は絶対的断絶としてではなく、別の循環への入り口として現れる。死は単独の否定ではなく分解を経て生成へと接続され、喪失は空白ではなく別様の残存の形式へ転位する。
ここで岩名の実践は、しばしば「ポストローカル」と呼びうる条件のもとに位置づけられる。これはローカルな共同体が充実した共同性を保持している状態を指すのではなく、むしろ共同体の基盤が衰弱し、継承の回路が断たれ、生活世界の自明性が崩れた後に、なお局所的な場に残存する関係や感覚のあり方を問う概念である。岩名の仕事は、まさにこの意味においてポストローカルである。彼は地域の共同体を理想化しない。そこには既に破壊や空洞化があり、信仰の形式も十全には維持されていない。しかしそのような崩壊のただなかにおいてなお、祭礼の身振り、道の記憶、野仏の痕跡、耕作放棄地の地勢、堆肥の湯気といった形で、関係性の微弱な連鎖が持続している。岩名の絵画は、その微弱な連鎖を視覚化する。言い換えれば彼の作品は、失われたローカルの再現ではなく、失われつつあるローカルの後に残る感覚的・物質的・儀礼的断片の布置なのである。
さらに重要なのは、岩名が絵画を平面内の自律的表現に限定せず、共同体的実践や物質循環の過程へと拡張している点である。島ヶ原で結成されたコレクティブ「蜜ノ木」や、その後の「ゑ講」は、欧米近代的なアーティスト・コレクティブとは異なる、日本の「講」の構造を参照しながら形成された実践である。そこでは芸術は、個人作家による作品制作の総体としてではなく、祭礼、滞在、共同制作、土地との関係の更新を伴う行為として再編成される。また、堆肥を画材とする《堆肥壁画》においては、作品は恒久保存されるべき完成体ではなく、時間の経過とともに剥落し、その物質が花壇を肥やすという循環の一環として構想されている。ここで絵画は、美術館的保存の論理から逸脱し、生成、損耗、腐食、再利用を内在的契機として組み込む媒体へと変質する。この実践は、作品の自律性、恒久性、完結性を前提としてきた近代芸術の制度的枠組みに対して、非完結的かつ循環的な芸術観を対置するものである。
以上の観点からすれば、岩名泰岳の芸術は、同時代絵画のなかの一様式としてのみ把握されるべきではない。彼の仕事は、地方の風景や信仰を描くことを通じて、より根底的には、絵画がいかなる時間を引き受けうるのか、また人間と非人間、死者と生者、廃棄物と供物、破壊と祭礼といった異質な領域の交錯をいかに可視化しうるのかを問うている。岩名の絵画空間においては、ものは自己同一的な形象として確立されるのではなく、つねに移行の途上にある存在として現れる。そこでは衰退は終末論的な閉域ではなく、循環と残存の別の相を開示する契機である。こうした点において岩名の実践は、現代日本の周縁的土地における経験を基盤としながら、同時に、現代絵画における表象、物質、共同性、霊性の再編という広い問題系に接続している。均質的な進歩史観が失効し、共同体の自明性が崩れた現代にあって、岩名泰岳の絵画は、失われつつある世界の内部になお潜在する生成の契機を、きわめて静かな、しかし強度の高い形式で提示している。
執筆サポート:OpenAI ChatGPT
監修:岩名泰岳